こんにちは、江戸川カエルです。
これから、わたしがジェンダーに対して感じている漠然としたしんどさを頑張って説明します。昨日の打ち上げでスタッフに「内面化ってどういうことですか」と聞かれたのでその説明も含めてご笑覧ください。
皆さんは英語、話せますか?わたしはおそらく、英語圏の10歳児程度の英語力です。ディズニー映画ならかろうじて観られる程度です。もちろん、日本語字幕つきでしたら法廷映画も医療サスペンスも見られます。そんなわたしですが、以前アメリカとカナダでインプロ(※1)ワークショップに参加しました。
トータルで約1ヶ月、英語圏で生活しながら英語でインプロレッスンを受ける中で、なんとなく子供に戻ったみたいな気持ちになりました。インプロをやる上ではとてもいい状態(※2)でしたし、参加者も講師もみんな優しかった。わたしが参加できるシーンをうまく作ってくれたりして。でも、たまに漠然としたしんどさを感じることがありました。例えば、当時20歳のわたしはお酒も飲むし煙草も吸うし、セックスも人並みにしてるし、将来のことを考えてもいたし、それなりに思想も意思もありました。だけど、そのことはまず「英語でうまく伝えることができない」だからなのか「ないことにされている」ような気持でした。わたしがカナダ、アメリカで始めの頃演じることが出来たのは、主に子どもの役か、オリエンタルなイメージなのか「マッサージ師」「さむらい」「観光客」でした。もちろん、日本でも比較的幼く見えるほうな容姿の問題もあったと思いますし、とにかく残念な英語力の問題もあったと思います。それに、不思議なことなんですけど、10歳児並の英語力で話しているとなんとなくそれ以上難しいことがあまり考えられなくなるんですよね、自分10歳児なんじゃないかと錯覚しそうになって怖くなって、ホステルで安部公房の「箱男」を読んで気持ちを落ち着かせたりもしました。
大好きな映画の話だけは人名と作品名で対応出来たので「キューブリックやクローネンバーグ、クリストファーウォーケンが大好きです」と言ったあたりから、なんとなく「おやおやこの子は見た目も言葉も10歳だけど中身は20歳なんだな」ということが伝わり始めた気がします(コナンみたいですね)
それでもやっぱり、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、飲みの席で恋人の話をしたりするとビックリされました。日本人に対するどこか真面目なイメージもあったと思います。わざとやったんですけど、喧嘩のシーンで捨て台詞に「Suck my dick!」と叫んだ時は死ぬほどウケてましたしみんなビックリしてました。実際にルームメイトと喧嘩した時に「Don’t treat me like a baby girl」と言ってぶち切れたのを周りの人たちがみていて、あとで「ずっとわたしたちは、あなたがシャイな日本人だと思っていたけど、全然そうじゃなくて純粋に英語がそんなに出来ないってだけなんだね!」と言われて、逆に「え、そうだよ?なんだと思っていたの?」という気持ちにもなりました。
帰国してから、母国語が日本語ではない人と日本語で会話をした時、とても敏感になりました。独特イントネーションにどこか「舌足らずさ」を感じて、まるで子供に話すように接してしまう自分に気が付きました。平易な日本語でも大人と話をすることは出来るのに、選択する話題のトピック自体がもう子どもと話すようなことなんです。そういう自分にかなりショックを受けました。
日本語と英語に、本来なら優劣はつけられないけれど、実際英語で喋れた方が圧倒的に多くの人ととコミュニケーションが円滑になります。もしかしたら多くの日本人は、”英語が喋れない”ことに劣等感を感じているのではないかなと思います。ですが劣等感を感じていることにすら気が付けないくらい当たり前の感覚になっている。これが”内面化”です。ものすごく乱暴に説明すると、10歳児程度の英語力の日本人が、10歳児程度の日本語力の英語圏の人と会話するとき、ごく自然に当たり前のこととして英語を選択したとします。これが”内面化”です。二人とも日本語で喋ることも、ルー語(※3)で喋ることもできたはずなのに。
昨年10月、グルジアで行われたコンタクトインプロのワークショップに参加しました。コンタクトインプロというのは、簡単にいうと合気道とコンテンポラリーダンスを組み合わせたもので、パートナーに触れたり体重を預けあったりしながら即興で踊るものです。グルジアで行われたのは「サイレントコンタクトインプロフェスティバル」で、7日間、参加者、講師ともに一切の言語コミュニケーションをとらないことを志向するワークショップです。1日10時間、言語コミュニケーションをとらずにコンタクトインプロをし続けるというワークショップでした。サイレントのワークショップで、一番違ったのは、出身国や名前を言わない聞かない、ということでした。名前で個体識別をできないので、そこにある身体と直接出会うことしかできない。特に日本人が海外のワークショップに出たときに、何より言語弱者の「日本人」であることがアイコンになりがちなので、それがなくて居やすかったというのもありました。そもそも言語で喋らないんだもん。
因みに、ここまで話してきた言語の問題はわたしの言いたいことと「似ていること」です。わたしは別に「日本語に権利を」とも「みんなルー語を喋ろうよ」とも思っていません。英語のことを考えるときに、痛みも怒りも伴わないくらい余裕のあるの立ち位置にいます。「英語が世界の共通言語ということに違和感をもったことない人っているんだなあ」くらいです。正直、英語本気で勉強すれば2ヶ月でかなりのとこまで行ける自信がありますし必要ならそうします。現状日本で日本語で生活しているから言えるのかもしれない。そしてその自覚があるからこそ、母国語が日本語ではない人と日本語で会話をした時に、二人のコミュニケーションに日本語というツールが選択されているということを忘れないようにしようと思っています。
わたしがジェンダーに関して感じている漠然とした生きづらさは、これに似ているなと思いました。
生まれつき「英語圏にいる日本語が母国語の人間」のような生きづらさ。女体であるというだけのことで、ふんわりとした舌足らずさを常に自分に感じてしまう。まるで、自分の能力が劣っているように感じてしまう。日本語であれば大学卒業程度、数三Cまで理解できていたわたしが、なぜか英語の世界では10歳児になってしまうのと同じように(日本語で喋ってるのに、すごいよね!)
わたしはいま、わたし自身がジェンダーのことを考えたり書いたりするとき、怒りも痛みも伴うところに居ます。なぜそうなってしまっているのかというと、わたしは生まれつき”女性の身体(と呼ばれているもの)”を持って生まれてきて、”女性のジェンダーロール”が当たり前だと思って生きてきたからです。”女性のジェンダーロール”というのは、(めちゃくちゃ沢山あるし相対化できていないのですが)例えば「女の子は家事ができたほうがいい」とか「子どもを産むかもしれないんだから冷やしちゃだめよ」とかです、乱暴に言うとね。(わたしは諸事情で子供をもつ予定が全くありませんが、それを言うと「でもね、、」と子供をもつことの社会的意義やすばらしさを訥々と説明されたり、母性のなさを糾弾されたりします)
ほら!もう文章からして痛みと怒りを伴いはじめた。ちょっとお茶を飲んでから続けますね。
とりあえず、自分が現状どこにいるのかをわかりやすくするために、わたしが考えている「わたしの現在地」めちゃくちゃ乱暴に整理してみました。
●人間には男性と女性という2つの種類があるとされています(性器の形が少し違う)
●色々あって男性には”リーダーシップ”であったり”強さ”や”仕事をする”という役割、女性には”子どもを産む””家事をする””ケアをする”などの役割が適していると考えられ(誰に?)なんとなく割り振られている
●役割としては”リーダーシップ”のほうが”ケア”より重要、必要、エライって思われている。”仕事をする”と”家事をする”も対等ではなく、”仕事をする”ほうがエライ。
つまり、現状のわたしは、女体(と呼ばれているもの)を持って産まれてきた時点で、”女性の役割”を期待されていますが、はじめから”女性の役割”自体が”男性の役割”よりも劣っていると考えられているような気がしています。かといって、その役割から外れたことをすると人として(女として)間違っていると糾弾される様な気がする環境で育ってきたため、役割から外れたことをするのに慣れていない、そもそも役割から外れたことをするという思考に至ることが難しかったりする(英語だと10歳児みたいな思考になってしまうことと似ている気がします)
そして、わたしの中ではこれが内面化されています。産まれた時から自分は劣っていると思っているけどそのことに疑問が持てなくなっていた。
もちろん、今は、そうじゃないことを知っています。上記のわたしの「現在地」は全部間違ってるって、知っています。”仕事”と”家事”に優劣はないはずですし、男女でその役割が割り振られる理由もありませんし、そもそも、人間は男女の2種類で分けられません。
こんな風に書いてきて、やっとじぶんの整理がついてきました。ここからはわたしが、わたし自身のためにやってきたこと、やっていく必要があることを書きます。
実際同時にやっていくかもしれないし、順番が前後したりする可能性が高いことです。
●自分の中で内面化されているジェンダーバイアスとミソジニ―に気づく
●↑と闘う。これにはどうしょうもなく痛みと怒りを伴うし、怒りのエネルギーがないと今は向き合えない(今ココ!)
●それでも、なるべく(なるべく)ミサンドリーに振り回されないようにする
●怒らなくても向き合えてこのさきどうすればいいかを、恨み抜きでちゃんと考えられるようになる
●男女2元論を、身体レベルで冷静に相対化できるようになる
どうしてこんなに不安になったり、怒ってしまうんだろうとずっと考えていました。最近なんとなく思うのは、「見えないから」なのかなと思います。例えば英語と日本語で言えば、日本人でも英語勉強してペラペラになった人がいるのを見ているし、ルー語のコミュニケーションがとれることをちゃんと知っているし、グルジアのように言語外でのコミュニケーションの成功例が自分の中にある。でも、わたしはまだ、ジェンダーバイアスのない世界を生きたことがないし、それがやってくるのかわからない。果てしない。
今のわたしがこうして、あるレベルまで言葉にできるのも、怒って泣いて闘ってくれた先人たちがいたからです。過去の物語を読んでも、バイアスのなかで戦って勝ち抜く女性は見ることが出来ても、そうでない社会をまだ見られていない。現状、怒って泣いて勝ち取る物語が、わたしの中でのジェンダーの進み方の基本なんです。血と涙と経血で渡された橋の上を歩きながら、わたしも泣いている。(遅れてるよね!わかってるよ!)
わたしには内海くんという男性の相方がいます。最近のわたしは、どこかで内海君を”男性”として断罪してしまうことが多々あります。ミサンドリーの激流の中にいます。そのことに気づいて申し訳なく思っています。怒りも痛みもなく、説明すれば聞いてくれることに対して、わたしはなんとなくイラだったり辛くなったりしてしまう。どうして”女性”が説明しないといけないのって。本当はルー語のはずなのに、あなたは余裕しゃくしゃくの英語圏にいるからそれが言えるんだよ、言語強者の自覚をもってよって。でも内海君は内海君なんだよね。男女二元論を強化してどうするわたしの馬鹿!って思っています。なんで怒ってるのかをうまく言葉にできないまま、怒りが”男性”や”内海君”に向かないようにするのは正直めちゃくちゃしんどいです。でも、わたしは内海君のことを人として愛しているから(向こうがそうであることも知っているから)なんとかしたいし、しようと思っています。
でも今の私には、それを完璧にこなすのは無理です。怒ってる。泣いてる。自分の中のジェンダーバイアスとミソジニ―とミサンドリーでぐちゃぐちゃになっている。もう少しでなんとかなりそうだけど、そのためにはまだ、このエネルギーが必要だって思えるくらいの位置にやっと立てた。
でもね、だからこれで終わりにしたいんです。わたしはわたしの、新しい物語を作りたい。怒って泣かなくてもいい世界になってほしいし、そういう捉え方で生きていける物語を作りたい。(この話も今度する)これから先の未来で、社会構造の圧倒的な理不尽さにひどく憤ったり、未来に希望が持てなくなってベソベソに泣いたりする人たちが少しでも減ったらいいなと本気で思っている。怒って泣いて勝ち取れとは言いたくない。だって怒るのつかれちゃうし、振り回されちゃうし。はやくその先に進んでワクワクしたいし、してほしい。
やっと「女たちの一生」の話をします。
今回の公演で、今すでにある構造に対してどうアプローチするのかを少しだけ学べた気がします。
みんなに悪意がないことは知っていたけど、わたしは稽古場でずっと怒っていた気がします。怒ってもしょうがないってわかってて、何に怒ってるのかもなかなか言葉にできなくて。でもその中で、えげつない構成に対してどうやってアプローチするかを、考えて、演出もキャストも敵じゃない、共生していくべき仲間なんだと言い聞かせて、ギリギリで喋っていたと思います。結果として、自分が納得できる形では上演されなかったし、仮面のなかで泣きながら舞台に立った回がありました。今でももっと出来ることがあったんじゃないかって考えてます。どうやって伝えたらよかったのか。それでずっと言葉にできなかったことや説明しても伝わりづらかったことを、言葉にする作業を、振り返りとかえさせてもらいました。
もう少し落ち着いたら具体的な話が書けたらいいなと思います。
見に来てくれた何人かの友人を傷つけてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。それ以上にやっぱり、くるるのおばあちゃんたちに対して申し訳なく思っています。本当にごめんなさい。あなたの人生はあなたのものだから、あんなものに呪われないでくれ。
(※1)即興演劇。あらかじめ決められた脚本や設定がない状態で、舞台上やお客さんからのアイディアをもとにパフォーマンスをしていく
(※2)「よくみえるかどうか」を考えない状態で楽しく熱中してインプロに取り組むことを「子どもみたいに」って言ったり「子どもはインプロの天才」という風に言われたりしています。
(※3)今日の天気はVERRY GOOD!銀座まで Train で Go しよう。