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1993年生まれ。江戸川区出身。写真家、仮面劇俳優、インプロバイザーとして活動中。人物ポートレート、人物スナップを得意とする。

詳細

2019年 5月18日、6月22日、7月20日、8月24日
時間:18:00~20:30
場所:葛西駅周辺(場所は来る人に直接お知らせ)
料金:初回2500円、2回目以降2000円(学生1500円)

各回完結なので、いつでも、一回だけでも参加できます。

ご予約:当ホームページのお問い合わせフォームより承ります

ザ・ベクデルテストとは

映画のジェンダーバイアスを考えるのに「ベクデルテスト」というものがあります。

①名前がついている女性が2人以上登場するか?
②その女性同士が会話をするシーンがあるか?
③その会話の内容は、男についての話以外であるか?
アリソン・ベクデルの漫画に出てきたキャラクターが「これをパスする映画しか見ない!」と話している場面から「ベクデルテスト」と名付けられました。たった三つの簡単な条件ですが、このテストをパスする映画は多くはありません。インプロの舞台でも同様に、このテストをパスできる公演は多くはありません。インプロでは、ステレオタイプなキャラクターづくりに陥りやすいという性質上、「医者」や「先生」と聞こえれば袖で男性がスタンバイをする。そこで女性が出てくると、生徒や患者と恋に落ちるシーンになる。男性との間で上司役になったりすると、聞こえないふりされたり、陥れられたり、殺されたりします。

ザ・ベクデルテストとは、ベクデルテストをパスするインプロを作るべく、BATSのリサ・ローランドが生み出した新しいインプロフォーマットのことです。このフォーマットでは、3人の女性主人公が出てきます。その3人の人生のスナップショットを追っていきます。終演後にはアフタートークがあり、観客とプレイヤーが感じたことや思ったことを話す時間が設けられます。
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何をやるの?

実際にやるかもしれないゲームを少し紹介します。
●ポートキー
単語を聞いて、思い出した話をしてもらいます。
誰かの話しているエピソードを聞いて思い出したことを他の人が話します。
 A:鍵といえば、小さい頃鍵を失くして家に入れなくて道端で座って待っていた時に~
 B:道端といえば、先日道端にアイスクリームが落ちていて~
 C:アイスクリームといえば

●次どうなるの?
2人組でお話をつくるゲームです。
 A:次どうなるの?
 B:海に行きます
 A:次どうなるの?
 B:海に入ります
 A:次どうなるの?
 B:サメに食べられます
 A:Non!
 B:次どうなるの?
 A:サメに乗ります

●ミラーリング
映画や、物語の中で女性がよくやっていること、男性がよくやっていることをあげて、ジェンダーチェンジしてシーンを作っていきます。眠る王子様のシーンとかね。

過去のザ・ベクデルテストの公演での取り組みと課題

●物語を作る際に、なかったことにしていた感情やモーメントに着目する(松山公演)
●物語を作る際に無意識に排除されてきた選択肢に着目する(横浜公演)
であったと思います。松山では、家事をする、仕事をするなど「とるにたらない」とされてきた部分をとりあげる試みをしてきました。わたしたちが生活している人生の一瞬を、それこそスナップショットのように切り取る試みだったと思います。
横浜公演以降は「演劇は社会を写す鏡ではない、鏡を壊すハンマーだ」を合言葉に、実際の社会では少し難しいかもしれないこと(例えばセクハラしてきた上司を灰皿で殴り殺すとか、そもそも女性をあたりまえに上司として描くとか)を描く取り組みをしてきました。
既存の物語は、各時代のジェンダー観を前提に作られています。なので、過去のドラマを見ると「現在ではハラスメント、コンプライアンス的にNGだな」ということがよく起きます。それらをよく見知っているわたしたちが、未来の(差別のない)ジェンダー観を前提とした物語を作っていくのは少し難しく、それこそセクハラをした上司を殴り殺すようなものを作りがちでした。プリンセスが剣を抜いたり、眠る王子様が当たり前に登場する物語を作っていくための方法を、現在模索中です。
過去の公演やワークショップに関わったインプロ関係の人からは「検閲がかかる」という声が多く聞こえました。検閲とは、「これをやってはいけないんじゃないか」という頭の中の警察官のようなものです。ザ・ベクデルテストに関わるとき、プレイヤーは「これをやってもいいんだろうか、いけないんじゃないか」という気持ちが必要以上に働いてしまい、うまく動くことが出来ませんでした。
例えば、わたし自身の問題としては、横浜以降”弱いキャラクター”を演じられなくなりました。また、関わってくれたプレイヤー達には自分の中のバイアスを断罪されるかのような恐怖を与えてしまったなという反省があります。明確な解決策はまだ見つかったとはいえませんが、とにかく「そのままやってみる」「それから違う選択をしてみる」ということが出来たら、自分にとってもみんなにとっても楽だなあと思っています。
検閲に関して今わたしが考えているのは、見えない抑圧を検閲と捉えて外していくことはできないか?ということです。例えば、通常インプロワークショップでは、「差別的でないか」「セクシャルでないか」「変な奴だと思われないか」「普通(つまらない)と思われないか」などが主だった検閲で、これを外していくためのゲームがいくつかあります。ですが、アイディアを出したり振る舞いには他にも「女々しいと思われないか」や「野蛮だと思われないか」などジェンダーにまつわる検閲がオートマチックでかかっているのではないかと思っています。これを外す方法を、今は考えています。
また、フォーマットの性質上、男女二元論を強化することになってしまわないかという懸念を抱えたまま活動を続けています。実際にプレイヤーからは「男とか女とか関係ないのに女性が3人出てくるというのは逆差別なのでは」「トランスジェンダーが排除されている」という声も上がっていました。
わたしは、最終的には、もちろん「男とか女とか関係ない」のが一番いいと思っています。まだ、そのためにどのような段階を踏めばいいのか完全に道が見えているわけではありません。みんなで探る時間になればいいなと思っています。なので、これは、お願いなのですが、どうぞ気軽に参加して頂きたいです。新しい物語をつくりたい、それがわたしの目的で祈りです。

よくある質問

Q :誰でも参加出来ますか?
A :演劇経験の有無にかかわらず、どなたでも参加いただけます (会場にはエレベーターがないため、階段で2階まで上がって頂く必要があります。お手伝いが必要な方はお申し込みの際にひとこと添えて頂けると助かります)

Q :インプロって何
A :即興演劇。あらかじめ決められた設定や脚本がないなかで、舞台上でうまれたアイディアや観客から貰ったアイディアをもとにシーンを作っていく。

Q :江戸川カエルって誰?
A :1993年東京生まれ。2011年よりインプロ(即興演劇)をはじめる。2012年より「江戸川カエル」としてインプロショーに出演開始。東京学芸大学表現コミュニケーション専攻にてインプロ/演劇教育を学ぶ。2015年、サンフランシスコのBay Area Theatre Sportsにて、カルガリーLoose Moose Theatreにてワークショップ参加。2019年までに100本以上のインプロショーに出演。2017年より、仮面劇俳優として無言劇の活動をはじめる。仮面ユニット「仮面夫婦」の奥様の付き添いとしてキングオブコント2018会場におもむき、1回戦突破するのを見ていた。 身体ワーク、仮面に関するワーク、ノンバーバルワークを得意とする。 2017年以降、「ザ・ベクデルテスト」というインプロフォーマットの研究やワークショップを続けている。

先日飲み会の席で、8年来の友人ノムラに「カエルちゃんは頭が切れるのに、人として何か欠落している、何が欠けているのかうまく言葉にはできないけど」と言われた。ノムラはわたしのそういうちょっとヤバいところを含めて面白がっているというのはよく知っているので面白おかしく聞いていたけれど、帰り道で、うーん、確かにそうだよなあと考えてしまった。

わたしの心は、ずっと前からドーナッツだった。ぽっかり穴があいていて、それを埋めることが出来ないような、よるべのない不安や寂しさに襲われることがしばしばある。適切な病院で診断を受ければ、ある程度名前の付くものだということも知っている。どうしてそうなったのか考えるのをやめてもう5年になる。ある意味で慣れて、ある意味で諦めた。穴は間違いなくある。それは奈落に続くものではなく、ただ向こう側をうつすだけの、ドーナッツの穴みたいなものだった。もうこの穴を掘ったって何も出てこないことも、とっくに知っていた。
普段は困らない。だってドーナッツは穴が開いていて当たり前のものだから。
ただ、たまに、牛乳につけたみたいに、内側からドロドロと溶け出して穴から小麦やら古くなった油を垂れ流すことがある。それは、過度の飲酒であったり攻撃行動であったり、クライミングを含む自傷行為だったりする(クライミング!健康的!)その度に、ああ、わたしの心はもうずっと前からドーナッツだったんだと思い出す。

何度も、何度も、ドーナッツの穴を探す旅に出ていたけれど、ちっとも見つからなかった。ドーナッツの穴の中身なんてどこにも売っていないし、違うものをはめ込んではひどいアレルギー反応を起こすようなことを繰り返していた。飲み会の帰り、久しぶりに穴を探しそうになってしまった、わたしの欠落はなんなのだろう、なにを持っていればよかったのだろう。

先の合宿で「ファストフード・スタニスラフスキー」をやった。「ヒーローになるために」や「嫌な奴になるために」のリストを持って演技をするというものだった。ヒーローリストには「輝く歯で笑う」「トロフィーを自慢する」「胸を開いて喋る」など具体的な行動が書かれている。ずいぶん前に、自分たちで仲間の行動のリストを作ったことを思い出した。その時作ったリストはどこかへ行ってしまったけれど、久しぶりにわたしのリストをつくった。穴を探すのではなくドーナッツのまわりを観察しているような気持だった。

[ファストフードスタニスラフスキー、カエルになるために]
⚫進んで命が危険な選択をする
⚫ドラッグかタバコを吸う
⚫しゃべる前に「やっぱり」と言う
⚫直前に話していたことと逆のことを言う
⚫ゾンビ映画を見て泣く
⚫ささいなこと(ドアを通る順番など)で突然怒り出し「尊厳に関わることだ」と主張する
⚫傷ついている人の味方をする
⚫最悪の展開を自覚的に誘発(相手を怒らせる、出ていかせる、縁を切る、まずい相手とセックスをするなど)
⚫突然テンションがあがり誉める
⚫しゃべる前に大きく息を吸うか、唇を噛む、ややしばらく話し出さない
⚫相手をじっと見つめる
⚫聞こえなかったふりをする
⚫「いまその話はしていない」と言う
⚫意外な場所に寝そべる
●踊り出す
⚫ストレッチをはじめる
⚫こだわっていたことを突然やめる(「もういい」といって話をやめる)
⚫機嫌がよく鼻唄を歌う
⚫筋トレに誘う
⚫好きな映画を聞き、今度見てみますねと言う
⚫人との体の距離が近い
⚫たまに人を持ち上げる
⚫どこかが痛いと言う人をみると処置をする(撫でる、揉む、気功の手当てをする、適切な病院をすすめる)
⚫言いたいことを一度飲み込む
●人の話は笑顔で聞く
⚫少し前の話を蒸し返す
⚫おなかがすいたと何度も言う
⚫筋肉の名前を沢山言う
⚫忌野清志郎の歌を歌って泣く
⚫大人数のときはよく物理的な立ち位置をころころ変える
⚫やりかけていたことを少し考えてやめる。トイレにいく、サラダを取り分ける、など
⚫変なタイミングで掃除をする
●相手が喜ぶものをプレゼントする
●自分が思っていることと逆のことを言って相手をじっと見つめる

最近やっと、欠けている自分を少し面白がれるようになってきた。このリストを、自己嫌悪ではなく「チェーホフに出てきそうな、面白いキャラだ(身の回りにいたら嫌だけど)」と思いながら書くことが出来た。リストのことはわたしにとって殆どが1ヶ月のうち1度はやることだ。つくづく厄介で面倒な奴だ。でも今は、ドーナッツの淵に立って向こう側を覗いている。いつかこの穴は埋まるんだろうか。それとも、これでいいと思える日がくるんだろうか。

長く続く桜の道、やや少ない街灯に照らされてところどころ白くぼんやりと光っていた。未だに蛍光灯なのか影は緑に長く伸びてさながらキリコの絵画に迷い込んだよう。
臨海公園では、昔からずっと「アベックに対する集団暴行」を警戒していた。罰則に力を入れるのではなく「注意して暗くなったら帰ってくれ」という放送を堂々と流すあたりに江戸川区を感じている。
好きな人と、絵画の中を歩きながら、もしも今集団に襲われたらと考えていた。見渡す限り人はいない、何かあったら全速力で逃げられる靴を履いてきた。好きな人は、敵を倒す方法ではなく安全に逃げのびる方法を何千通りも知っていた。そのいくつかをわたしにも教えてくれた。手に持っているのは飲みかけのアサヒスーパードライ、プロレスではよく武器になるけれど実戦ではお話にならない。お金もないわたしたちはどうして暴行されるかもしれないんだろう、と2人のボロボロの上着を見ていた。
春の風はなりを潜め、すっかり冷たい風が吹いていた。突然の寒気のおかげで今年の桜は長く持つらしい。もしかしたら来週もこうやって花見ができるだろうか。もしかしたら、こういう明日の約束が、羨ましかったんだろうか。

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わたし自身も先日遺影を用意したのでその話を。
わたしが、わたし自身の遺影を用意しようと思った理由は2つある。ひとつめは、愛する人たちにわたしが幸福だと伝えるため。そしてふたつめは、遺影がお守りになると思ったからだ。

自分の死と、親しい人々がそれをどう受け止めるのかについて考えるとき、なぜかクジのことが思い出された。クジとはキャンプでマシュマロを焼きながら哲学の話をする程度の仲を、かれこれ12年続けている。細く長い付き合いだ。クジは笑い上戸で、飄々としていて、教養を無駄遣いしながらいつもお腹を抱えて笑っている。こう書くとふざけた人間だと思われるかもしれないが、わたしにとってのクジはそういう人間だった。細い付き合いだから直接見ることがなかっただけかもしれない。でも、クジの強い正義感も責任感も勤勉さも努力も涙も、あったであろう苦しさも、わたしの中では笑い声でしか思い出されない。そういうところを尊敬している。愛している。だから、おこがましい祈りだとわかっていても、わたしの遺影を見たクジは、笑っていないとだめなのだ。クジがお腹を抱えて笑ってくれる遺影でなくてはダメだった。クジが全力で「なんでだよ!どういうことなんだよ!」と笑いながら詰れるわたしにしようと思った。そうして、自分の死をそういう風に考えられる今が、かけがえのないほど幸福だと思った。現実感がないくらい生きるつもりでいた自分にびっくりした。クジやその他友人たちは、ひどく刹那的なわたしのことをすごく心配してくれていたように思う。自分からどんどん孤立していくわたしの手を、ギリギリ離さないでいてくれた人たちばかりだ。そんな人たちに囲まれてわたしは随分明るくなったし、幸せだ。
そしてここからが「お守り」の話。
こんな遺影を用意したからには、あがいて生きなければならないと思った。これをクジが大笑いできるのは、わたしが間際の1秒ギリギリまで色んなことを諦めなかったときだけだと思った。いつ死んでもおかしくない、いつ死んでもいいわたしは、笑ってもらえない気がした。この写真はモデルをしている美術教室で、クラノさんに撮ってもらった。クラノさんとは「マリファナが解禁するまで生き延びようね」と約束している。わたしの愉快な友人たち。愉快な友人に囲まれて、なんちゃってヴィーナスの恰好をしている愉快な遺影。いつか、近いのか遠いのかわからない未来、この遺影を囲む友人たちがあがいて生きたわたしのことを大笑いできるように、それまでわたしは生きなくては、その決意のお守りに。

2019年3月撮影 江戸川カエルが遺影にする予定の写真

先月イリノさんの遺影の依頼を受けて、恥ずかしながらはじめて「写真に写る」ということを考えた。わたしは今まで、ずっとカメラを持つ側だったため、「撮る/撮られる」ということしか考えたことがなかった。尊大だ。わたし自身の遺影を用意しようと思ったとき、はじめて、そこには祈りがあり意図的に写真に「写る」のだということに気が付いた。イリノさんにもイリノさんの祈りがあった。写真を撮ることでは、その祈りに寄り添うことしか出来ない。だけど、その作業は思ったよりずっと楽しかった。だから、これからももっとこういう写真が撮れたらいいな。ご依頼お待ちしております。

こんにちは、江戸川カエルです。
これから、わたしがジェンダーに対して感じている漠然としたしんどさを頑張って説明します。昨日の打ち上げでスタッフに「内面化ってどういうことですか」と聞かれたのでその説明も含めてご笑覧ください。

皆さんは英語、話せますか?わたしはおそらく、英語圏の10歳児程度の英語力です。ディズニー映画ならかろうじて観られる程度です。もちろん、日本語字幕つきでしたら法廷映画も医療サスペンスも見られます。そんなわたしですが、以前アメリカとカナダでインプロ(※1)ワークショップに参加しました。
トータルで約1ヶ月、英語圏で生活しながら英語でインプロレッスンを受ける中で、なんとなく子供に戻ったみたいな気持ちになりました。インプロをやる上ではとてもいい状態(※2)でしたし、参加者も講師もみんな優しかった。わたしが参加できるシーンをうまく作ってくれたりして。でも、たまに漠然としたしんどさを感じることがありました。例えば、当時20歳のわたしはお酒も飲むし煙草も吸うし、セックスも人並みにしてるし、将来のことを考えてもいたし、それなりに思想も意思もありました。だけど、そのことはまず「英語でうまく伝えることができない」だからなのか「ないことにされている」ような気持でした。わたしがカナダ、アメリカで始めの頃演じることが出来たのは、主に子どもの役か、オリエンタルなイメージなのか「マッサージ師」「さむらい」「観光客」でした。もちろん、日本でも比較的幼く見えるほうな容姿の問題もあったと思いますし、とにかく残念な英語力の問題もあったと思います。それに、不思議なことなんですけど、10歳児並の英語力で話しているとなんとなくそれ以上難しいことがあまり考えられなくなるんですよね、自分10歳児なんじゃないかと錯覚しそうになって怖くなって、ホステルで安部公房の「箱男」を読んで気持ちを落ち着かせたりもしました。
大好きな映画の話だけは人名と作品名で対応出来たので「キューブリックやクローネンバーグ、クリストファーウォーケンが大好きです」と言ったあたりから、なんとなく「おやおやこの子は見た目も言葉も10歳だけど中身は20歳なんだな」ということが伝わり始めた気がします(コナンみたいですね)
それでもやっぱり、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、飲みの席で恋人の話をしたりするとビックリされました。日本人に対するどこか真面目なイメージもあったと思います。わざとやったんですけど、喧嘩のシーンで捨て台詞に「Suck my dick!」と叫んだ時は死ぬほどウケてましたしみんなビックリしてました。実際にルームメイトと喧嘩した時に「Don’t treat me like a baby girl」と言ってぶち切れたのを周りの人たちがみていて、あとで「ずっとわたしたちは、あなたがシャイな日本人だと思っていたけど、全然そうじゃなくて純粋に英語がそんなに出来ないってだけなんだね!」と言われて、逆に「え、そうだよ?なんだと思っていたの?」という気持ちにもなりました。
帰国してから、母国語が日本語ではない人と日本語で会話をした時、とても敏感になりました。独特イントネーションにどこか「舌足らずさ」を感じて、まるで子供に話すように接してしまう自分に気が付きました。平易な日本語でも大人と話をすることは出来るのに、選択する話題のトピック自体がもう子どもと話すようなことなんです。そういう自分にかなりショックを受けました。

日本語と英語に、本来なら優劣はつけられないけれど、実際英語で喋れた方が圧倒的に多くの人ととコミュニケーションが円滑になります。もしかしたら多くの日本人は、”英語が喋れない”ことに劣等感を感じているのではないかなと思います。ですが劣等感を感じていることにすら気が付けないくらい当たり前の感覚になっている。これが”内面化”です。ものすごく乱暴に説明すると、10歳児程度の英語力の日本人が、10歳児程度の日本語力の英語圏の人と会話するとき、ごく自然に当たり前のこととして英語を選択したとします。これが”内面化”です。二人とも日本語で喋ることも、ルー語(※3)で喋ることもできたはずなのに。

昨年10月、グルジアで行われたコンタクトインプロのワークショップに参加しました。コンタクトインプロというのは、簡単にいうと合気道とコンテンポラリーダンスを組み合わせたもので、パートナーに触れたり体重を預けあったりしながら即興で踊るものです。グルジアで行われたのは「サイレントコンタクトインプロフェスティバル」で、7日間、参加者、講師ともに一切の言語コミュニケーションをとらないことを志向するワークショップです。1日10時間、言語コミュニケーションをとらずにコンタクトインプロをし続けるというワークショップでした。サイレントのワークショップで、一番違ったのは、出身国や名前を言わない聞かない、ということでした。名前で個体識別をできないので、そこにある身体と直接出会うことしかできない。特に日本人が海外のワークショップに出たときに、何より言語弱者の「日本人」であることがアイコンになりがちなので、それがなくて居やすかったというのもありました。そもそも言語で喋らないんだもん。

因みに、ここまで話してきた言語の問題はわたしの言いたいことと「似ていること」です。わたしは別に「日本語に権利を」とも「みんなルー語を喋ろうよ」とも思っていません。英語のことを考えるときに、痛みも怒りも伴わないくらい余裕のあるの立ち位置にいます。「英語が世界の共通言語ということに違和感をもったことない人っているんだなあ」くらいです。正直、英語本気で勉強すれば2ヶ月でかなりのとこまで行ける自信がありますし必要ならそうします。現状日本で日本語で生活しているから言えるのかもしれない。そしてその自覚があるからこそ、母国語が日本語ではない人と日本語で会話をした時に、二人のコミュニケーションに日本語というツールが選択されているということを忘れないようにしようと思っています。

わたしがジェンダーに関して感じている漠然とした生きづらさは、これに似ているなと思いました。
生まれつき「英語圏にいる日本語が母国語の人間」のような生きづらさ。女体であるというだけのことで、ふんわりとした舌足らずさを常に自分に感じてしまう。まるで、自分の能力が劣っているように感じてしまう。日本語であれば大学卒業程度、数三Cまで理解できていたわたしが、なぜか英語の世界では10歳児になってしまうのと同じように(日本語で喋ってるのに、すごいよね!)
わたしはいま、わたし自身がジェンダーのことを考えたり書いたりするとき、怒りも痛みも伴うところに居ます。なぜそうなってしまっているのかというと、わたしは生まれつき”女性の身体(と呼ばれているもの)”を持って生まれてきて、”女性のジェンダーロール”が当たり前だと思って生きてきたからです。”女性のジェンダーロール”というのは、(めちゃくちゃ沢山あるし相対化できていないのですが)例えば「女の子は家事ができたほうがいい」とか「子どもを産むかもしれないんだから冷やしちゃだめよ」とかです、乱暴に言うとね。(わたしは諸事情で子供をもつ予定が全くありませんが、それを言うと「でもね、、」と子供をもつことの社会的意義やすばらしさを訥々と説明されたり、母性のなさを糾弾されたりします)

ほら!もう文章からして痛みと怒りを伴いはじめた。ちょっとお茶を飲んでから続けますね。

とりあえず、自分が現状どこにいるのかをわかりやすくするために、わたしが考えている「わたしの現在地」めちゃくちゃ乱暴に整理してみました。

●人間には男性と女性という2つの種類があるとされています(性器の形が少し違う)
●色々あって男性には”リーダーシップ”であったり”強さ”や”仕事をする”という役割、女性には”子どもを産む””家事をする””ケアをする”などの役割が適していると考えられ(誰に?)なんとなく割り振られている
●役割としては”リーダーシップ”のほうが”ケア”より重要、必要、エライって思われている。”仕事をする”と”家事をする”も対等ではなく、”仕事をする”ほうがエライ。

つまり、現状のわたしは、女体(と呼ばれているもの)を持って産まれてきた時点で、”女性の役割”を期待されていますが、はじめから”女性の役割”自体が”男性の役割”よりも劣っていると考えられているような気がしています。かといって、その役割から外れたことをすると人として(女として)間違っていると糾弾される様な気がする環境で育ってきたため、役割から外れたことをするのに慣れていない、そもそも役割から外れたことをするという思考に至ることが難しかったりする(英語だと10歳児みたいな思考になってしまうことと似ている気がします)
そして、わたしの中ではこれが内面化されています。産まれた時から自分は劣っていると思っているけどそのことに疑問が持てなくなっていた。
もちろん、今は、そうじゃないことを知っています。上記のわたしの「現在地」は全部間違ってるって、知っています。”仕事”と”家事”に優劣はないはずですし、男女でその役割が割り振られる理由もありませんし、そもそも、人間は男女の2種類で分けられません。

こんな風に書いてきて、やっとじぶんの整理がついてきました。ここからはわたしが、わたし自身のためにやってきたこと、やっていく必要があることを書きます。
実際同時にやっていくかもしれないし、順番が前後したりする可能性が高いことです。
●自分の中で内面化されているジェンダーバイアスとミソジニ―に気づく
●↑と闘う。これにはどうしょうもなく痛みと怒りを伴うし、怒りのエネルギーがないと今は向き合えない(今ココ!)
●それでも、なるべく(なるべく)ミサンドリーに振り回されないようにする
●怒らなくても向き合えてこのさきどうすればいいかを、恨み抜きでちゃんと考えられるようになる
●男女2元論を、身体レベルで冷静に相対化できるようになる

どうしてこんなに不安になったり、怒ってしまうんだろうとずっと考えていました。最近なんとなく思うのは、「見えないから」なのかなと思います。例えば英語と日本語で言えば、日本人でも英語勉強してペラペラになった人がいるのを見ているし、ルー語のコミュニケーションがとれることをちゃんと知っているし、グルジアのように言語外でのコミュニケーションの成功例が自分の中にある。でも、わたしはまだ、ジェンダーバイアスのない世界を生きたことがないし、それがやってくるのかわからない。果てしない。
今のわたしがこうして、あるレベルまで言葉にできるのも、怒って泣いて闘ってくれた先人たちがいたからです。過去の物語を読んでも、バイアスのなかで戦って勝ち抜く女性は見ることが出来ても、そうでない社会をまだ見られていない。現状、怒って泣いて勝ち取る物語が、わたしの中でのジェンダーの進み方の基本なんです。血と涙と経血で渡された橋の上を歩きながら、わたしも泣いている。(遅れてるよね!わかってるよ!)

わたしには内海くんという男性の相方がいます。最近のわたしは、どこかで内海君を”男性”として断罪してしまうことが多々あります。ミサンドリーの激流の中にいます。そのことに気づいて申し訳なく思っています。怒りも痛みもなく、説明すれば聞いてくれることに対して、わたしはなんとなくイラだったり辛くなったりしてしまう。どうして”女性”が説明しないといけないのって。本当はルー語のはずなのに、あなたは余裕しゃくしゃくの英語圏にいるからそれが言えるんだよ、言語強者の自覚をもってよって。でも内海君は内海君なんだよね。男女二元論を強化してどうするわたしの馬鹿!って思っています。なんで怒ってるのかをうまく言葉にできないまま、怒りが”男性”や”内海君”に向かないようにするのは正直めちゃくちゃしんどいです。でも、わたしは内海君のことを人として愛しているから(向こうがそうであることも知っているから)なんとかしたいし、しようと思っています。

でも今の私には、それを完璧にこなすのは無理です。怒ってる。泣いてる。自分の中のジェンダーバイアスとミソジニ―とミサンドリーでぐちゃぐちゃになっている。もう少しでなんとかなりそうだけど、そのためにはまだ、このエネルギーが必要だって思えるくらいの位置にやっと立てた。

でもね、だからこれで終わりにしたいんです。わたしはわたしの、新しい物語を作りたい。怒って泣かなくてもいい世界になってほしいし、そういう捉え方で生きていける物語を作りたい。(この話も今度する)これから先の未来で、社会構造の圧倒的な理不尽さにひどく憤ったり、未来に希望が持てなくなってベソベソに泣いたりする人たちが少しでも減ったらいいなと本気で思っている。怒って泣いて勝ち取れとは言いたくない。だって怒るのつかれちゃうし、振り回されちゃうし。はやくその先に進んでワクワクしたいし、してほしい。

やっと「女たちの一生」の話をします。
今回の公演で、今すでにある構造に対してどうアプローチするのかを少しだけ学べた気がします。
みんなに悪意がないことは知っていたけど、わたしは稽古場でずっと怒っていた気がします。怒ってもしょうがないってわかってて、何に怒ってるのかもなかなか言葉にできなくて。でもその中で、えげつない構成に対してどうやってアプローチするかを、考えて、演出もキャストも敵じゃない、共生していくべき仲間なんだと言い聞かせて、ギリギリで喋っていたと思います。結果として、自分が納得できる形では上演されなかったし、仮面のなかで泣きながら舞台に立った回がありました。今でももっと出来ることがあったんじゃないかって考えてます。どうやって伝えたらよかったのか。それでずっと言葉にできなかったことや説明しても伝わりづらかったことを、言葉にする作業を、振り返りとかえさせてもらいました。
もう少し落ち着いたら具体的な話が書けたらいいなと思います。

見に来てくれた何人かの友人を傷つけてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。それ以上にやっぱり、くるるのおばあちゃんたちに対して申し訳なく思っています。本当にごめんなさい。あなたの人生はあなたのものだから、あんなものに呪われないでくれ。

(※1)即興演劇。あらかじめ決められた脚本や設定がない状態で、舞台上やお客さんからのアイディアをもとにパフォーマンスをしていく
(※2)「よくみえるかどうか」を考えない状態で楽しく熱中してインプロに取り組むことを「子どもみたいに」って言ったり「子どもはインプロの天才」という風に言われたりしています。
(※3)今日の天気はVERRY GOOD!銀座まで Train で Go しよう。

「今何をしようとしていたんだっけ」を思い出せずに、家のなかで立ち止まることがよくある。そうだ、眼鏡を取りに立ったんだった、お茶を飲もうとしたんだった、着替えをまとめに、メールの返事をしようと、布団を干そうと、あの人に連絡しようとしたんだった。
立ち上がり歩いて、何をしようとしていたのか忘れ、思い出そうとすると、やろうとしていことが次々と浮かぶ。見たかった映画の上映時間や、五年も経ってしまったまたご飯行こうねや、爪も切りたいし掃除機もかけたいし、戦うための戦略を練り直さなくてはいけない、ぽっかりと昨年亡くなった人のことを思い出して、そういえば今あの子何してるのかな。

この年末年始は、久しぶりに挨拶回りをやめた。お世話になっている人や店(だいたい飲食店がらみ)をポツポツ回って、来年も今年もどうぞよろしくと一杯で梯子するのをやめた。親族会にも出なかった。小学校の同級生と銭湯にいき、格闘技をみて、クライミングをして、酒を飲んで眠りテレビを見て眠り、ダラダラしていた。あけましておめでとうございますに返事をすることもしなかった。12月31日と地続きの1月1日はクラクラするくらい新鮮だった。ほんとうに、なにもしなくても2019年はやって来た。

わたしはこのことを、長い間知らずに生きていた。迎えなくては新年はやってこないものだと思い込んでいた。あたらしい抱負、あたらしい目標、あたらしいわたし。いつもどこかへ行かなくては、何かをしなくてはと走っていたように思う。

ここ一週間「今何をしようとしていたんだっけ」が思い出せなくても、よいことにしている。そのまま家を出て携帯を忘れたり、ご機嫌伺いの営業電話も忘れてしまう、明日しますのメールの返事が宙ぶらりんになったまま日々過ごしている。要はぼーっとしている。あとでふと思い出して、その時やり直せばいいと、開き直ることにしている。

昨日は、メールが来てないかと携帯を探しに立ち上がって、靴を磨いて満足した。そういう自分のことをずっと知っていたのに、ずっと見ないふりをしてきたように思う。

あたらしい目標もあたらしいわたしもいない、ただしっかり昨日と繋がった今日が過ぎていく。そのことがずっと怖かった。恐れていた事態を、今は心地よく「幸せ」とすら感じられる。明日になったら、もしかしたら、ぽっかりと独立した”新しい1日”を走り始めるかもしれない。でも今は、昨日の続きの今日を生きることができている。