Info

1993年生まれ。江戸川区出身。写真家、仮面劇俳優、インプロバイザーとして活動中。人物ポートレート、人物スナップを得意とする。

いつか精神が健康になったら、もっとラクに、楽しい未来のことを考えたり社会を攪乱するようなことが出来るんじゃないかと考えていた。いつか健康になったら、社会を攪乱するのを諦めてしまえるのかもしれないと怖くなって「今のままでも出来ることは沢山あるぞ」と自分や社会の健康信仰に唾を吐くような日もあった。

ご存知の方も多いと思うけど、わたしはとてもネガティブで日頃から不平不満が多いし、普通の人に比べて怒ってる時間も泣いている時間も長い気がする。

あんまり公言してこなかったけれど、わたしはBPD(T)という傾向をもっている。でも、なんとなく仕事もできてるし愛している友人ともそこそこ長いこと付き合えるようになってきたし、何より、わたしは、怒ったり泣いたりはしゃいで踊ったり何かに熱中して倒れるまでやる自分のことは嫌いじゃなかった。お人好しがすぎる自分も嫌いじゃなかった(その分恋人などから搾取をしてしまうことは治したかったけど、、、)(続いている友人達とは、主に友人たちの適切な距離と尽力のおかげですどうもありがとう)
この傾向があったお陰で見られた景色もあったと思うことで溜飲をさげることもある。徐々に落ち着いていければいいくらいに思ってた。恋人のことは諦めていた(ひどく傷つけた人たちへの「諦めてごめんなさい」に埋もれて死にたくなる夜はある)誰かに依存したり搾取しながら生きて行く自分を、諦めていた。
わたしはこの障害について自分のことを強く責める気もなかったし、このことについて変わりたいと強く願うことがなかった。「こんなもんかな」って思ってた。「こんなもん」で上々よ、何より生きてるしまだ誰も殺してない。15のわたしに教えてあげたいよ。あんた10年後生きてるし誰も殺してないよ、ただちょっと情緒が不安定なだけ。ビックリ~。

そんなわたしが、これはもうプロの力を借りてでも変わりたいと思ったきっかけは2月の仮面劇にまつわる色々なことだった。
そのとき怒りにまかせて書いたドロドロの文が仮面劇「女たちの一生」横浜公演を終えていいたいことだった。
仮面劇自体の振り返りは結局今も書けていない。参加動機だった「インタビュイーへの応答の場」をセッティングすることも出来なかった。終わり、次、という風にいけないまま4ヶ月がたった。わたしは今でも、仮面の中から見た客席を思い出して動けなくなることがある。この景色を、柏の人たちは何も知らずに過ごしている。もしかしたら、わたしが騒いで挙句降りなければもっと早急にセッティングできたんじゃないかとも思っている。

11月からずっと、わたしは怒らないで済むならどんなに円滑なんだろうと考えていた。ジェンダーのこととインタビュー倫理の問題がごっちゃになってうまく伝わらなかったのではない。それにさらに、生まれ持った傾向(正確には遺伝と環境要因)とがごっちゃになって、全然冷静でいられなかったんだと思う。自分が自分に課してるものがトーンポリシングにかなり近いものだということも気が付いていた。それでもなんとかしたかった。仮面劇は柏の友人たちへのインタビューを扱っていた。わたしがブチ切れていたのはその扱いの不誠実さに対してだったけど、自分がいることで防波堤になれるんじゃないかと思っていた。仮面劇も座組のみんなも好きだし。

信じてもらえないかもしれないけど、仮面劇も座組のみんなも、本当に、好きだったんだ。
柏の人たちのことを好きなのと、全然変わらず好きだったんだ。

3月末に座組から降りて以来、あれに関わった殆どの人と連絡をとっていないし、連絡をとっても、うまくいっていない。仮面以外のコミュニケーションもうまくいかなくなってしまった。もう気持ちが無理無理だった。

座組のみんなとのコミュニケーションが「距離をとる」以外の方法でうまくいかなくなってしまったのは、わたしの思想ではなく強い怒りが原因だった。(距離をとるという選択ができたのはめちゃくちゃ成長してるけど)違う思想を持っている人が集まっているという当たり前のなかで、少しずつ自分や相手の好きの折衷案をとるみたいな方法が出来なかった。今回の場合は、インタビューを扱う際に倫理的に守らなくていけない(いけないとされている)ラインがあって、みんなはそのことを「知らなかった」
正直そこに折衷もなにも「人殺してはいけないよ」と同じなので、知らないことを責めないでもっと冷静に話していればうまくいったかもしれないし、うまくいかなかったとしても、ここまで関係が悪化することもなかったのになと思っている。(因みに内海君は人を殺してはいけないとすら思っていないとのことだったのでこのことについて一切話すのをやめる方法で関係を持続する協定を結んだ)

先日、内海君と話していて「カエルは傷つきやすいから」と言われて今回のことの合点がいった。内海君は傷つきやすいと言ったけど、たぶんそれは怒りっぽいも含んでいたのだと思う。

わたしはいつだって傷ついて怒っている。

仮面劇のときからずっと考えていた。もしあのとき語気を和らげられたら伝わったんじゃないか、もっと泣いておけば伝わったんじゃないか。だけどそうじゃない。わたしがいつだって傷ついていつだって怒っているから。もうそれはいつものことだった。わたしはいつだってとるに足らないことでも怒っている。傷ついている。今回のことが、たまたまマジで、とるに足らなくなかっただけだった。オオカミ少年みたいな話だなと思った。

とてもしんどい話だな。

なれるもんなら健康になりたい。そしたら今回みたいなことがあっても、仮に怒ってしまったとしても、ここまで何もかも駄目にして後ろ足で砂をかけて辞めずに済んだかもしれない。もっといえば、いちばんやりたかったこと、柏の友人たちに仮面劇を届けることができたかもしれない。

それでわたしは、はじめて、本格的にプロに頼むことにした。
5年ぶりくらいに心療内科で相談をした。結果としては「徐々に落ち着いていければいいくらいに思ってた」のスタンスはほぼ正解で、根本治療という感じではなく、人間としての成熟や加齢とともに落ち着く、怒りや不安への投薬という形での対処療法になっていく、ということだった。まあそうだよね、魔法みたいにシュッと人が変わったら気持ち悪いしね。
落ち着く時期は「だいたい40歳前後」とのことだった。あと15年もしんどいのかよファック!と叫びそうになったけど正直関連本を読み漁ってから行っているので織り込み済みだった。

何もかもが全て変わってしまうんじゃないか、という期待と不安の持ち方は、BPTの特徴でもあるけど、実際には「何もかもすべて」なんてことはないので、もっと早く行っておけばよかったかもなあと思った。

あと15年も、このややこしい自分と付き合っていけるのか正直わからない。
不安や怒りの発作のさなかに突然ふっと死んでしまうかもしれないなと、今でもたまに思う。
いつか健康になったら、もっと楽しく踊れるかもしれないし、もっと楽しく見たことのない物語を作れるかもしれない。まばたきをするごとに近づく「いつか」に想いを馳せて、今は暗闇でダンスを踊っている。

詳細

2019年 5月18日、6月22日、7月20日、8月24日
時間:18:00~20:30
場所:葛西駅周辺(場所は来る人に直接お知らせ)
料金:初回2500円、2回目以降2000円(学生1500円)

各回完結なので、いつでも、一回だけでも参加できます。

ご予約:当ホームページのお問い合わせフォームより承ります

ザ・ベクデルテストとは

映画のジェンダーバイアスを考えるのに「ベクデルテスト」というものがあります。

①名前がついている女性が2人以上登場するか?
②その女性同士が会話をするシーンがあるか?
③その会話の内容は、男についての話以外であるか?
アリソン・ベクデルの漫画に出てきたキャラクターが「これをパスする映画しか見ない!」と話している場面から「ベクデルテスト」と名付けられました。たった三つの簡単な条件ですが、このテストをパスする映画は多くはありません。インプロの舞台でも同様に、このテストをパスできる公演は多くはありません。インプロでは、ステレオタイプなキャラクターづくりに陥りやすいという性質上、「医者」や「先生」と聞こえれば袖で男性がスタンバイをする。そこで女性が出てくると、生徒や患者と恋に落ちるシーンになる。男性との間で上司役になったりすると、聞こえないふりされたり、陥れられたり、殺されたりします。

ザ・ベクデルテストとは、ベクデルテストをパスするインプロを作るべく、BATSのリサ・ローランドが生み出した新しいインプロフォーマットのことです。このフォーマットでは、3人の女性主人公が出てきます。その3人の人生のスナップショットを追っていきます。終演後にはアフタートークがあり、観客とプレイヤーが感じたことや思ったことを話す時間が設けられます。
ザ・ベクデルテストの関連記事一覧

何をやるの?

実際にやるかもしれないゲームを少し紹介します。
●ポートキー
単語を聞いて、思い出した話をしてもらいます。
誰かの話しているエピソードを聞いて思い出したことを他の人が話します。
 A:鍵といえば、小さい頃鍵を失くして家に入れなくて道端で座って待っていた時に~
 B:道端といえば、先日道端にアイスクリームが落ちていて~
 C:アイスクリームといえば

●次どうなるの?
2人組でお話をつくるゲームです。
 A:次どうなるの?
 B:海に行きます
 A:次どうなるの?
 B:海に入ります
 A:次どうなるの?
 B:サメに食べられます
 A:Non!
 B:次どうなるの?
 A:サメに乗ります

●ミラーリング
映画や、物語の中で女性がよくやっていること、男性がよくやっていることをあげて、ジェンダーチェンジしてシーンを作っていきます。眠る王子様のシーンとかね。

過去のザ・ベクデルテストの公演での取り組みと課題

●物語を作る際に、なかったことにしていた感情やモーメントに着目する(松山公演)
●物語を作る際に無意識に排除されてきた選択肢に着目する(横浜公演)
であったと思います。松山では、家事をする、仕事をするなど「とるにたらない」とされてきた部分をとりあげる試みをしてきました。わたしたちが生活している人生の一瞬を、それこそスナップショットのように切り取る試みだったと思います。
横浜公演以降は「演劇は社会を写す鏡ではない、鏡を壊すハンマーだ」を合言葉に、実際の社会では少し難しいかもしれないこと(例えばセクハラしてきた上司を灰皿で殴り殺すとか、そもそも女性をあたりまえに上司として描くとか)を描く取り組みをしてきました。
既存の物語は、各時代のジェンダー観を前提に作られています。なので、過去のドラマを見ると「現在ではハラスメント、コンプライアンス的にNGだな」ということがよく起きます。それらをよく見知っているわたしたちが、未来の(差別のない)ジェンダー観を前提とした物語を作っていくのは少し難しく、それこそセクハラをした上司を殴り殺すようなものを作りがちでした。プリンセスが剣を抜いたり、眠る王子様が当たり前に登場する物語を作っていくための方法を、現在模索中です。
過去の公演やワークショップに関わったインプロ関係の人からは「検閲がかかる」という声が多く聞こえました。検閲とは、「これをやってはいけないんじゃないか」という頭の中の警察官のようなものです。ザ・ベクデルテストに関わるとき、プレイヤーは「これをやってもいいんだろうか、いけないんじゃないか」という気持ちが必要以上に働いてしまい、うまく動くことが出来ませんでした。
例えば、わたし自身の問題としては、横浜以降”弱いキャラクター”を演じられなくなりました。また、関わってくれたプレイヤー達には自分の中のバイアスを断罪されるかのような恐怖を与えてしまったなという反省があります。明確な解決策はまだ見つかったとはいえませんが、とにかく「そのままやってみる」「それから違う選択をしてみる」ということが出来たら、自分にとってもみんなにとっても楽だなあと思っています。
検閲に関して今わたしが考えているのは、見えない抑圧を検閲と捉えて外していくことはできないか?ということです。例えば、通常インプロワークショップでは、「差別的でないか」「セクシャルでないか」「変な奴だと思われないか」「普通(つまらない)と思われないか」などが主だった検閲で、これを外していくためのゲームがいくつかあります。ですが、アイディアを出したり振る舞いには他にも「女々しいと思われないか」や「野蛮だと思われないか」などジェンダーにまつわる検閲がオートマチックでかかっているのではないかと思っています。これを外す方法を、今は考えています。
また、フォーマットの性質上、男女二元論を強化することになってしまわないかという懸念を抱えたまま活動を続けています。実際にプレイヤーからは「男とか女とか関係ないのに女性が3人出てくるというのは逆差別なのでは」「トランスジェンダーが排除されている」という声も上がっていました。
わたしは、最終的には、もちろん「男とか女とか関係ない」のが一番いいと思っています。まだ、そのためにどのような段階を踏めばいいのか完全に道が見えているわけではありません。みんなで探る時間になればいいなと思っています。なので、これは、お願いなのですが、どうぞ気軽に参加して頂きたいです。新しい物語をつくりたい、それがわたしの目的で祈りです。

よくある質問

Q :誰でも参加出来ますか?
A :演劇経験の有無にかかわらず、どなたでも参加いただけます (会場にはエレベーターがないため、階段で2階まで上がって頂く必要があります。お手伝いが必要な方はお申し込みの際にひとこと添えて頂けると助かります)

Q :インプロって何
A :即興演劇。あらかじめ決められた設定や脚本がないなかで、舞台上でうまれたアイディアや観客から貰ったアイディアをもとにシーンを作っていく。

Q :江戸川カエルって誰?
A :1993年東京生まれ。2011年よりインプロ(即興演劇)をはじめる。2012年より「江戸川カエル」としてインプロショーに出演開始。東京学芸大学表現コミュニケーション専攻にてインプロ/演劇教育を学ぶ。2015年、サンフランシスコのBay Area Theatre Sportsにて、カルガリーLoose Moose Theatreにてワークショップ参加。2019年までに100本以上のインプロショーに出演。2017年より、仮面劇俳優として無言劇の活動をはじめる。仮面ユニット「仮面夫婦」の奥様の付き添いとしてキングオブコント2018会場におもむき、1回戦突破するのを見ていた。 身体ワーク、仮面に関するワーク、ノンバーバルワークを得意とする。 2017年以降、「ザ・ベクデルテスト」というインプロフォーマットの研究やワークショップを続けている。

先日飲み会の席で、8年来の友人ノムラに「カエルちゃんは頭が切れるのに、人として何か欠落している、何が欠けているのかうまく言葉にはできないけど」と言われた。ノムラはわたしのそういうちょっとヤバいところを含めて面白がっているというのはよく知っているので面白おかしく聞いていたけれど、帰り道で、うーん、確かにそうだよなあと考えてしまった。

わたしの心は、ずっと前からドーナッツだった。ぽっかり穴があいていて、それを埋めることが出来ないような、よるべのない不安や寂しさに襲われることがしばしばある。適切な病院で診断を受ければ、ある程度名前の付くものだということも知っている。どうしてそうなったのか考えるのをやめてもう5年になる。ある意味で慣れて、ある意味で諦めた。穴は間違いなくある。それは奈落に続くものではなく、ただ向こう側をうつすだけの、ドーナッツの穴みたいなものだった。もうこの穴を掘ったって何も出てこないことも、とっくに知っていた。
普段は困らない。だってドーナッツは穴が開いていて当たり前のものだから。
ただ、たまに、牛乳につけたみたいに、内側からドロドロと溶け出して穴から小麦やら古くなった油を垂れ流すことがある。それは、過度の飲酒であったり攻撃行動であったり、クライミングを含む自傷行為だったりする(クライミング!健康的!)その度に、ああ、わたしの心はもうずっと前からドーナッツだったんだと思い出す。

何度も、何度も、ドーナッツの穴を探す旅に出ていたけれど、ちっとも見つからなかった。ドーナッツの穴の中身なんてどこにも売っていないし、違うものをはめ込んではひどいアレルギー反応を起こすようなことを繰り返していた。飲み会の帰り、久しぶりに穴を探しそうになってしまった、わたしの欠落はなんなのだろう、なにを持っていればよかったのだろう。

先の合宿で「ファストフード・スタニスラフスキー」をやった。「ヒーローになるために」や「嫌な奴になるために」のリストを持って演技をするというものだった。ヒーローリストには「輝く歯で笑う」「トロフィーを自慢する」「胸を開いて喋る」など具体的な行動が書かれている。ずいぶん前に、自分たちで仲間の行動のリストを作ったことを思い出した。その時作ったリストはどこかへ行ってしまったけれど、久しぶりにわたしのリストをつくった。穴を探すのではなくドーナッツのまわりを観察しているような気持だった。

[ファストフードスタニスラフスキー、カエルになるために]
⚫進んで命が危険な選択をする
⚫ドラッグかタバコを吸う
⚫しゃべる前に「やっぱり」と言う
⚫直前に話していたことと逆のことを言う
⚫ゾンビ映画を見て泣く
⚫ささいなこと(ドアを通る順番など)で突然怒り出し「尊厳に関わることだ」と主張する
⚫傷ついている人の味方をする
⚫最悪の展開を自覚的に誘発(相手を怒らせる、出ていかせる、縁を切る、まずい相手とセックスをするなど)
⚫突然テンションがあがり誉める
⚫しゃべる前に大きく息を吸うか、唇を噛む、ややしばらく話し出さない
⚫相手をじっと見つめる
⚫聞こえなかったふりをする
⚫「いまその話はしていない」と言う
⚫意外な場所に寝そべる
●踊り出す
⚫ストレッチをはじめる
⚫こだわっていたことを突然やめる(「もういい」といって話をやめる)
⚫機嫌がよく鼻唄を歌う
⚫筋トレに誘う
⚫好きな映画を聞き、今度見てみますねと言う
⚫人との体の距離が近い
⚫たまに人を持ち上げる
⚫どこかが痛いと言う人をみると処置をする(撫でる、揉む、気功の手当てをする、適切な病院をすすめる)
⚫言いたいことを一度飲み込む
●人の話は笑顔で聞く
⚫少し前の話を蒸し返す
⚫おなかがすいたと何度も言う
⚫筋肉の名前を沢山言う
⚫忌野清志郎の歌を歌って泣く
⚫大人数のときはよく物理的な立ち位置をころころ変える
⚫やりかけていたことを少し考えてやめる。トイレにいく、サラダを取り分ける、など
⚫変なタイミングで掃除をする
●相手が喜ぶものをプレゼントする
●自分が思っていることと逆のことを言って相手をじっと見つめる

最近やっと、欠けている自分を少し面白がれるようになってきた。このリストを、自己嫌悪ではなく「チェーホフに出てきそうな、面白いキャラだ(身の回りにいたら嫌だけど)」と思いながら書くことが出来た。リストのことはわたしにとって殆どが1ヶ月のうち1度はやることだ。つくづく厄介で面倒な奴だ。でも今は、ドーナッツの淵に立って向こう側を覗いている。いつかこの穴は埋まるんだろうか。それとも、これでいいと思える日がくるんだろうか。

長く続く桜の道、やや少ない街灯に照らされてところどころ白くぼんやりと光っていた。未だに蛍光灯なのか影は緑に長く伸びてさながらキリコの絵画に迷い込んだよう。
臨海公園では、昔からずっと「アベックに対する集団暴行」を警戒していた。罰則に力を入れるのではなく「注意して暗くなったら帰ってくれ」という放送を堂々と流すあたりに江戸川区を感じている。
好きな人と、絵画の中を歩きながら、もしも今集団に襲われたらと考えていた。見渡す限り人はいない、何かあったら全速力で逃げられる靴を履いてきた。好きな人は、敵を倒す方法ではなく安全に逃げのびる方法を何千通りも知っていた。そのいくつかをわたしにも教えてくれた。手に持っているのは飲みかけのアサヒスーパードライ、プロレスではよく武器になるけれど実戦ではお話にならない。お金もないわたしたちはどうして暴行されるかもしれないんだろう、と2人のボロボロの上着を見ていた。
春の風はなりを潜め、すっかり冷たい風が吹いていた。突然の寒気のおかげで今年の桜は長く持つらしい。もしかしたら来週もこうやって花見ができるだろうか。もしかしたら、こういう明日の約束が、羨ましかったんだろうか。

遺影撮影の依頼受付を開始いたしました。
対象:遺影をつくりたい方、どなたでも
金額:1.5万~2万よりご相談(撮影地により変動)
詳細はお問い合わせフォームよりお問い合わせください。

―――――――――――――――――

わたし自身も先日遺影を用意したのでその話を。
わたしが、わたし自身の遺影を用意しようと思った理由は2つある。ひとつめは、愛する人たちにわたしが幸福だと伝えるため。そしてふたつめは、遺影がお守りになると思ったからだ。

自分の死と、親しい人々がそれをどう受け止めるのかについて考えるとき、なぜかクジのことが思い出された。クジとはキャンプでマシュマロを焼きながら哲学の話をする程度の仲を、かれこれ12年続けている。細く長い付き合いだ。クジは笑い上戸で、飄々としていて、教養を無駄遣いしながらいつもお腹を抱えて笑っている。こう書くとふざけた人間だと思われるかもしれないが、わたしにとってのクジはそういう人間だった。細い付き合いだから直接見ることがなかっただけかもしれない。でも、クジの強い正義感も責任感も勤勉さも努力も涙も、あったであろう苦しさも、わたしの中では笑い声でしか思い出されない。そういうところを尊敬している。愛している。だから、おこがましい祈りだとわかっていても、わたしの遺影を見たクジは、笑っていないとだめなのだ。クジがお腹を抱えて笑ってくれる遺影でなくてはダメだった。クジが全力で「なんでだよ!どういうことなんだよ!」と笑いながら詰れるわたしにしようと思った。そうして、自分の死をそういう風に考えられる今が、かけがえのないほど幸福だと思った。現実感がないくらい生きるつもりでいた自分にびっくりした。クジやその他友人たちは、ひどく刹那的なわたしのことをすごく心配してくれていたように思う。自分からどんどん孤立していくわたしの手を、ギリギリ離さないでいてくれた人たちばかりだ。そんな人たちに囲まれてわたしは随分明るくなったし、幸せだ。
そしてここからが「お守り」の話。
こんな遺影を用意したからには、あがいて生きなければならないと思った。これをクジが大笑いできるのは、わたしが間際の1秒ギリギリまで色んなことを諦めなかったときだけだと思った。いつ死んでもおかしくない、いつ死んでもいいわたしは、笑ってもらえない気がした。この写真はモデルをしている美術教室で、クラノさんに撮ってもらった。クラノさんとは「マリファナが解禁するまで生き延びようね」と約束している。わたしの愉快な友人たち。愉快な友人に囲まれて、なんちゃってヴィーナスの恰好をしている愉快な遺影。いつか、近いのか遠いのかわからない未来、この遺影を囲む友人たちがあがいて生きたわたしのことを大笑いできるように、それまでわたしは生きなくては、その決意のお守りに。

2019年3月撮影 江戸川カエルが遺影にする予定の写真

先月イリノさんの遺影の依頼を受けて、恥ずかしながらはじめて「写真に写る」ということを考えた。わたしは今まで、ずっとカメラを持つ側だったため、「撮る/撮られる」ということしか考えたことがなかった。尊大だ。わたし自身の遺影を用意しようと思ったとき、はじめて、そこには祈りがあり意図的に写真に「写る」のだということに気が付いた。イリノさんにもイリノさんの祈りがあった。写真を撮ることでは、その祈りに寄り添うことしか出来ない。だけど、その作業は思ったよりずっと楽しかった。だから、これからももっとこういう写真が撮れたらいいな。ご依頼お待ちしております。